守澤太志/ SS 96期 秋田

HERO STORY

中長距離界のHERO、守澤

冬には雪が降り積もる秋田県大仙市で生まれ育った“ふとし”少年がスキー板を履くのは必然だった。小学4年生から始めたアルペンスキー。しかし、長く続けるにはお金もかかってしまう。将来のこと、そして親のことを考えて、中学のときに辞めた。家の近くにあった秋田県立大曲農業高等学校の自転車部が強豪だと知り、進学して入部した。2003年、高校3年生のときにインターハイのポイントレースで優勝する。当時、同じ大会の1㎞タイムトライアルで優勝したのは同級生だった新田祐大である。高校卒業後は明治大学商学部へ進み、自転車部に所属した。2005年、大学2年生のときに国体のポイントレースで優勝。2007年、大学4年生のときには全日本大学対抗選手権(インカレ)の個人ロードレースで優勝している。ポイントレースやロードレースというのは自転車競技の中で「中長距離種目」にあたり、その世界で守澤はすでに「HERO」であった。

競輪界でトップを目指して

しかし守澤は大学を中退し、「短距離種目」である競輪の道を志すことにした。いわばマラソンのトップ選手が100m走で頂点を目指そうというものだとも言われ、傍から見れば無謀な挑戦とも思えた。2008年、日本競輪学校(現・日本競輪選手養成所)へ入校。同期には深谷知広がいた。2009年、在校成績10位で卒業。卒業記念レースは2位だった。同年7月に青森競輪場でデビューするが、結果は準優勝。初優勝は1カ月後の静岡競輪場である。それでも1年半で14回の優勝を重ねて、2010年のルーキーチャンピオンレースへ出場。結果は4着。1着は深谷知広だった。当時守澤はA級での出場だったが、深谷はすでにS級へ昇級していた。2011年1月にS級へ昇格。しかし力及ばず、翌年A級へ降格。2013年、再びS級へ復帰すると番手をまわるようになり、成績が安定し始めた。2014年、寛仁親王牌でG1初出場。2015年、富山競輪でS級初優勝を果たす。デビューから6年目のことだった。2016年からG1出場回数が増えていき、6月の久留米記念でG3初優勝。9月の共同通信社杯でビッグレース初優出を叶える。2017年、日本選手権でG1初の決勝進出を果たした。その後落車や失格が相次ぎ、2018年には一時S級2班へ降班してしまうが、2019年にS級1班へ復帰すると、その年は事故なく級班を守り切る。そして2020年、F1で優勝を重ね、ウィナーズカップで準優勝。G1で着をまとめ、気付けば賞金ランキング9位。10位の山田英明とわずか180万円の差で、初のグランプリ出場を成し遂げたのである。

競輪界No.1の差し脚武器に

経歴の示す通り、強い選手ではあるけれど、競輪界のスターというほどの派手さはない。今年も6月の別府記念では優勝しているが、これまで12年の競輪人生でグレードレース優勝はG3の2回だけ。ビッグレース優勝歴はなし。それでも今年も獲得賞金ランキング8位で2年連続グランプリ出場を決めた。なぜなのか。それは間違いなく、学生時代に中長距離で鍛えたスタミナだ。直線での追込み、差し脚は競輪界ナンバーワンと言っても過言ではないだろう。だからこそ、ビッグレースの決勝常連であり、優勝には届かないものの、確定板には乗ってきている。その積み重ねのグランプリ出場だ。同級生の新田祐大や同期の深谷知広は出場が叶わなかった。競輪。それは単に短距離の自転車競技ではなく、総合力の戦い。守澤のような選手がグランプリで勝って「HERO」になることを、“競輪”ファンは望んで止まない。